昭和30年代、産業エネルギー源は、石炭から石油へと大転換を遂げ、当時の若松市も石炭依存経済からの脱却に迫られていました。
昭和33年には響灘の開発推進母体として「若松北海岸埋立促進期成会」が設立され、以降、開発の中心的役割を果たすことになりました。
昭和35年、響灘に約3,700haの埋立計画が承認される一方、響灘進出企業第1号として電源開発株式会社の立地が決定し、開発の機運は高まって行きました。
その後、昭和38年の五市合併による北九州市誕生に伴い、計画の再検討が行われ、数度の練り直しの結果、昭和46年には新しい計画原案が完成しました。
14年間にわたり響灘の開発促進の努力を続けてきた期成会は、昭和47年12月「ひびき灘開発株式会社発起人会」として発展的改組を行い、会社設立に向けて精力的に活動を開始しました。
当時からこれまでの響灘地区の移り変わりとともに、ひびき灘開発の歴史を是非御覧ください。
ひびき灘開発株式会社